弱者の兵法

何かアクティブなことをするとき、自分の中にそれを自制しようとするシステムのようなものが働く。俺は病気を持っているから、普通の人が当たり前に出来ることが出来ない。例えば徹夜とか、早い時間帯から行って閉演まで遊び続けるディズニーとか、12時間ぶっ通しのゲームとか。挙げたものは普通の人でもそれなりにしんどいことだと思うけど、彼らならその後のダルさみたいなものを代償として支払えば済むところを、俺は下血や高熱でそれを補うことになる。

 

だから何か新しいことを始めようと思うときは、「自分が本当に出来るのか」、「仮に一時的に続けられても過度な負荷を体にかけてすぐにやめてしまうことにならないか」ってことをよく考える。それでも失敗してしまうことは何度もあるけど、努めてそういうことを考えるようにしている。

 

そういう風に物事を捉えていると、とにかくいろいろなことに臆病になる。何か新しいことを始めても、「あ、前に進みすぎちゃったかな」と思って、すぐに元の地点に戻りたくなる。前進をし続けるより、一歩前に進んだらその都度休み、次に進むための大まかな段取りを決めて再度一歩歩くか、ある場合にはそこで歩みを止めてしまう。

 

そういうある種消極的な態度で人生を生きてきたし、石橋を叩いて渡るこのスタイルに、そこまで不満もなかった。「病気な俺は、こうしないと生きられない。可能な限りリスクを最小限にしなくては」と思っていた。

 

ただ、そうしたスタイルは必然的に、自分の人生をある部分でとても閉じられたものにしていた。何か新しいことを始めようと思っても、ちょっと興味を持ったとしても、「でもまずは様子見しよう」、「体調を可能な限り保つためにがっつきすぎないように」と思っていた。別にそういった考えが決して間違っているというわけではないだろうけど、100%安全な地点なんてどこにもないのに、100%安全な保証を求めて物事に慎重になってしまうのは、とても惜しいことだと思った。

 

普通の人と同じようには進めない。同じスピードで、同じ分量の物事をやって、同じ目線で物事を捉えることはできない。だけど、俺は俺なりの道を見つけることは出来るかもしれない。「弱者には弱者の兵法がある」と野村克也は言っていた。臆病になるわけでもなく、かといって普通の人のペースに合わせるわけでもなく、俺は俺自身のステップで、適切な道を辿ることが出来るかもしれない。弱者には弱者の戦い方があるかもしれない。そんなことを朝起きたときにふと思った。