仮定の話として

具体化できない灰色の靄が辺りを取り囲み、言いようのない窮屈さで自身の寄る辺がふっとなくなったとき、僕は旅に出た。
 
行き先は決めなかった。
何時に起きて、どこに行って、何が必要だとか、そんなことすら全部かなぐり捨てて、衝動的に深夜バスに乗った。
国道11号線を通り白川ICに入る。合流レーンに行くまでのカーブの強い道路で重力が何倍にもなったと錯覚する。遠心力を強く感じながら、もう引き返すことは出来ないとぼんやりと悟った。
 
バスの車内ではイヤホンから「深夜高速」が流れた。こんな時に聴くのにぴったりだ。冒頭のイントロが流れたとき、あまりの絶望感に吐き気がした。心を落ち着けよう。今の僕をこの場に固定させているのは、ちっぽけな勇気と不安定な狂気だけなのだから。
 
外を眺めると、幾何級数的速度で対向車が視界を通り過ぎる。真夜中に見るそれらは、頑強な物体の高速移動ではなく、まばゆい光の乱反射に見えた。
 
まだるっこしいなぁと思いながら、『タクシードライバー』の主人公が深夜のネオン街を車で走らせるときってこんな感じだったのかな、って感慨に浸った。なんというか、空虚な心を外界の景色だけが慰めるような。
 
 
このときになって頭の中は現実的な問題を僕じゃない誰かが考え始める。それは僕ではなく、30年にわたって1人の人間が積み重ねてきた自己防衛機能から生じる何かだった。
これからどこに行くの。今日泊まる場所は?お金もないのにどうするの。
 
僕は自暴自棄にその考えから被りを振るけど、僕じゃない誰かはそれを許しはしない。
 
 
「深夜高速」が終わる。衝動的にこんなところまで来て何やってるんだ。こんなことしたって何も変わらないのに。自暴自棄は窮屈な現実の打破じゃなく、ただ自身の存在をぞんざいに扱うことで今の僕が以前の僕とは違うんだ、と錯覚させるにすぎないのに。
 
思考が展開する。今日を生き延びたとして明日は。思考する。不安定な道程の行く末は。思考する。僕を僕たらしているものは。思考。深夜高速。僕が。思考。深夜。タクシードライバー。ネオン街。思考する。思考。展開する。僕ではない誰か。思考する。
思考。展開。ここではないどこか。展開。

あの夏は、胸のあたりで覚えている。

ここ1年ずっとBSで放送している映画を観るのが日課になっている。地上波だとカットが多用されてもう半ばダイジェスト版のようになっている作品も多い中、BSはその辺の制約が緩いのかノーカットで放送されているものが多くて気に入っている。

個人的に好きなチャンネルがNHKBSとBS松竹東急。ほとんど毎日何かしらの名作を流している。タイトルの一文はある日のBS松竹東急で放送していた『つぐみ』の番組紹介文から。

この一文が気になって映画を観たけど該当のセリフは多分一度も流れなかった。この映画は吉本ばななの原作が映画化されたものなので小説の方に使われた言葉なのかもしれないけど、検索してもそれらしい情報は出てこない。

一節だけで心の琴線に刺さってしまうような、そんなフレーズだっただけに映画も併せて印象に残った作品だった。それにしてもどこからの一節なんだろう。気になる。

この映画では、おそらく小説からそのまま引用されたかのような主人公の独白シーンがある。そこで間接的に(直接的に?)吉本ばななの文章に触れることになった。

 

言い回しや言葉の選択がとても良かった。まだ自分が知らない世界がどこにでもどれだけでもあるんだなぁ、って感じ。

考えてやまないね。

こんな夜にこんな深夜に

下書きにはたくさんの文章が溜まっているけど、それを完成されたものとしてここに出すにはどうしても不十分な気がして、先延ばし先延ばしにしていたら1年以上も経ってしまった。

 

きっと今の僕の思いをしっかりそのままの形で伝えることは出来ないと思うけど、それでも何らかの成果物をこの場に書き残すことで何か、ほんの少しでもこの跡地に意味を与えたい。

 

 

たまに無性に昔聴いていた音楽や観ていた動画をもう一度聴いて、観たくなるときがある。そのときに少しの間だけ昔僕が感じていた世界を感じることが出来て、もう決して戻ることも感じることもできないその世界にとても切なくなる。

 

その世界の多幸性と今の現実を比較して息苦しくなる。でも多分そのときの方がきっと苦しかったんだろうな。思い出は美化されて辛かった出来事は風化して輝いていたものだけが残ってるからそう感じるんだろうな。

 

だからこれも深夜にたまにセンチメンタルになる現象を、たまたま途中下車してその過程を記しているだけで、この文章を投稿したらまた現実に戻るよ。

 

 

こんな深夜にそれでも足掻きたいのさ

 

 

金木犀

金木犀について考えるとき、君のことを考える。

「赤黄色の金木犀」とか「金木犀の夜」とか「キンモクセイ」のことを考える。

 

あんなことを言った手前言いにくいけど、折に触れて君のことを考える。

 

君に好きな人(異性に関わらず)が出来たかなとか、君は今楽しく暮らしてるかなとか、そんなことを考える。

 

君を見つけたときのなんともいえない高揚感のようなものは、今でも記憶の1シーンにしっかり残っている。

 

自分から声をかけようと思うことなんて滅多にないのだけど、あのときは行動に移すことが、話しかけることが僕にとってとても当たり前のことのように思えた。

 

Xデーを決めた。

 

君と出会って話すことをゴールにして、その日までは、僕のわがままを通そうと思った。君が僕のことを疎ましく思っても、接することが僕の独りよがりに過ぎなかったとしても、君と直に話すまでは僕の身勝手を押し通そうと思った。

 

Xデーまで僕がやりたいこと、出来ること、出来うることをやった。

 

あのときの僕の一喜一憂っぷりはとても恥ずかしいものがある。

 

 

Xデー、あの日、僕は拒絶されたように思う。

 

そのときの気持ちは、「今まで本当に申し訳ないことをしてしまった」という気持ちと、「それでもここまで付き合ってくれてありがとう」という気持ちと、ただ心にぽっかり穴が開いた空虚な気持ちが混在していた。

 

Xデーはあの日だから、これ以上僕が関わる大義はなかった。もう僕のわがままを押し通す余地はなかった。

 

そして君は去った。中から煌々と明かりが洩れたあのコンビニから。

君がいないコンビニで、僕は寒さでかじかんだ手を必死に吐息で暖めながら、もういるべき理由を見出せず、それでもただぼんやりと立ち続けた。

 

あれから2年経った。

 

たまに君のことを考える。

金木犀について考える。

 

見送った列車の行き先について考える。

 

 

キンモクセイがそうさせる。突き刺すくらいに感傷的な。キンモクセイがそうさせる。