仮定の話として
あの夏は、胸のあたりで覚えている。
ここ1年ずっとBSで放送している映画を観るのが日課になっている。地上波だとカットが多用されてもう半ばダイジェスト版のようになっている作品も多い中、BSはその辺の制約が緩いのかノーカットで放送されているものが多くて気に入っている。
個人的に好きなチャンネルがNHKBSとBS松竹東急。ほとんど毎日何かしらの名作を流している。タイトルの一文はある日のBS松竹東急で放送していた『つぐみ』の番組紹介文から。
この一文が気になって映画を観たけど該当のセリフは多分一度も流れなかった。この映画は吉本ばななの原作が映画化されたものなので小説の方に使われた言葉なのかもしれないけど、検索してもそれらしい情報は出てこない。
一節だけで心の琴線に刺さってしまうような、そんなフレーズだっただけに映画も併せて印象に残った作品だった。それにしてもどこからの一節なんだろう。気になる。
この映画では、おそらく小説からそのまま引用されたかのような主人公の独白シーンがある。そこで間接的に(直接的に?)吉本ばななの文章に触れることになった。
言い回しや言葉の選択がとても良かった。まだ自分が知らない世界がどこにでもどれだけでもあるんだなぁ、って感じ。
考えてやまないね。
こんな夜にこんな深夜に
下書きにはたくさんの文章が溜まっているけど、それを完成されたものとしてここに出すにはどうしても不十分な気がして、先延ばし先延ばしにしていたら1年以上も経ってしまった。
きっと今の僕の思いをしっかりそのままの形で伝えることは出来ないと思うけど、それでも何らかの成果物をこの場に書き残すことで何か、ほんの少しでもこの跡地に意味を与えたい。
たまに無性に昔聴いていた音楽や観ていた動画をもう一度聴いて、観たくなるときがある。そのときに少しの間だけ昔僕が感じていた世界を感じることが出来て、もう決して戻ることも感じることもできないその世界にとても切なくなる。
その世界の多幸性と今の現実を比較して息苦しくなる。でも多分そのときの方がきっと苦しかったんだろうな。思い出は美化されて辛かった出来事は風化して輝いていたものだけが残ってるからそう感じるんだろうな。
だからこれも深夜にたまにセンチメンタルになる現象を、たまたま途中下車してその過程を記しているだけで、この文章を投稿したらまた現実に戻るよ。
こんな深夜にそれでも足掻きたいのさ
泥濘
心の中に溜まった泥濘を
ありあわせの櫂でかき集める
僕の心の卑小さを
その表面に纏う俗物さを
せっせと取り払う
What I know, All you know
君を救う言葉が 君を救う物語が
きっとこの先待っているから
諦めてはいけないよ
金木犀
金木犀について考えるとき、君のことを考える。
「赤黄色の金木犀」とか「金木犀の夜」とか「キンモクセイ」のことを考える。
あんなことを言った手前言いにくいけど、折に触れて君のことを考える。
君に好きな人(異性に関わらず)が出来たかなとか、君は今楽しく暮らしてるかなとか、そんなことを考える。
君を見つけたときのなんともいえない高揚感のようなものは、今でも記憶の1シーンにしっかり残っている。
自分から声をかけようと思うことなんて滅多にないのだけど、あのときは行動に移すことが、話しかけることが僕にとってとても当たり前のことのように思えた。
Xデーを決めた。
君と出会って話すことをゴールにして、その日までは、僕のわがままを通そうと思った。君が僕のことを疎ましく思っても、接することが僕の独りよがりに過ぎなかったとしても、君と直に話すまでは僕の身勝手を押し通そうと思った。
Xデーまで僕がやりたいこと、出来ること、出来うることをやった。
あのときの僕の一喜一憂っぷりはとても恥ずかしいものがある。
Xデー、あの日、僕は拒絶されたように思う。
そのときの気持ちは、「今まで本当に申し訳ないことをしてしまった」という気持ちと、「それでもここまで付き合ってくれてありがとう」という気持ちと、ただ心にぽっかり穴が開いた空虚な気持ちが混在していた。
Xデーはあの日だから、これ以上僕が関わる大義はなかった。もう僕のわがままを押し通す余地はなかった。
そして君は去った。中から煌々と明かりが洩れたあのコンビニから。
君がいないコンビニで、僕は寒さでかじかんだ手を必死に吐息で暖めながら、もういるべき理由を見出せず、それでもただぼんやりと立ち続けた。
あれから2年経った。
たまに君のことを考える。
金木犀について考える。
見送った列車の行き先について考える。
僕の
僕の心の係留地
そんなに多くはいらない